来歴と由来
[森部の戦い]
永禄4年5月13日織田と斎藤両軍により森部で戦が行われました。
当時,美濃側の斎藤 義龍は病床にあり、継嗣・龍興は13歳の若年でありましたが、家臣の奮戦で織田軍を追い払いました。
[寺院建立]
そこで美濃方には知られないように、蜂須賀小六公等の野武士の協力を得て、織田信長公は長良川沿いに幾つもの寺院を建立しました。
これを美濃攻略の糸口としました。
永禄六年に建立された正法寺(現・羽島市福寿町本郷)はその重要拠点の一つで、4町歩の境内がありました。
信長公は正法寺を柴田勝家公の差配としました。
[開山・恵空智玉大和尚]
間も無く、西之庄・立政寺から恵空智玉大和尚を御開山として迎えました。
[洪水]
江戸中期の長良川洪水の折、正法寺は甚大な被害を被り、それを機に現在地,羽島市竹鼻町川町に移転しました。
[臥龍の松]
復興の気持ちを込めて元の地にあった若松を移植して「臥龍の松」と称しました。
[乳乞い観世音菩薩]
織田信長公が比叡山を焼き討ちにした時、厳命を受けた柴田勝家公もこれに加わりましたが、神佛尊信の思い深き勝家公の家臣は破却・焼却するに忍びないと、観音様の御尊像一体を正法寺に運び入れました。
この観音様は「信心の女人に母乳を豊かにする霊験あり」と評判になり「乳乞い観世音菩薩」として1950年代までは参詣者が絶えませんでした。
[再建]
正法寺は平成21年から平成23年の再建工事で旧来の面影は一新され近代的な寺院に生まれ変わりました。
これを機に皆様方のご支援・ご協力を得て、共に新しい時流を担っていきたいと願望します。
臥龍の松
境内に高さより横枝の方が長い黒松が有り、臥龍の松と名付けられています。
横枝は15m以上の長さが、樹齢は300年。
瑞松園の名はこの松に由来する。
乳乞観音
観音堂には十一面観音が祀ってあるが「往古海中ヨリ出現セリ」と寺伝に有る。
別に口伝があって、信長の比叡山焼打ちの時、重臣柴田勝家が炎上する諸堂より運び出した仏菩薩の中の一体である。
この観音様は智證大師の御作と伝えられていて、乳房の疾病に霊験あらたかで、妊産婦の信仰を集めている。
ご詠歌に「乳なくば たずねてまいれ 正法寺 必ず利益あるぞうれしき」とあり、乳乞観音と名付けられている。